「それ」は今まで感じたことのない感情につき動かされていた。
 何度も傷を受けたことで当分、どんなに急いでも向こう一ヶ月は「羽化」は望めなくなっている。
 特に体の一部を失ったことと内部に浸透する攻撃のダメージは深刻で、いくつかの「能力」を封じられてしまっている。 早急に「部品」と「燃料」を手に入れなくてはならない。 その欲求は強く、激しく、本能が告げる危険を無視するほどにまで高まっている。 そして、途中から増えた邪魔者も排除し、「部品」にも動かなくなってもらった瞬間に、新たな障害がやってきた。 「それ」は吼える。 力の限り。 すぐにでも、積極的に障害を「排除」する、と意思表示するかのように。 そう、「それ」は今、怒りに支配されていた。 その感情は「蛹」のものなのか、それとも「羽化してくるもの」の・・・・・





 SUN PM 7:45 ペンギン公園

 「鬼」が吼える。 木々を震わせて。 人に聞き取れる音を完全に越えた高さの声で。 耳には届かなくても肌はその振動をはっきりと感知出来る。 慟哭か、新たな感情の産声か、当人にも理解出来ぬまま「鬼」は啼く。 自らの音で全てを壊さんとするかのごとく。 そう、この世の全てを。

 ふわり

 「鬼」の足下に転がる「右腕」が浮き上がる。 その声に導かれるように、ゆっくりと、「鬼」の目の高さまで。 その拳の指し示す先には

 小狼のそばにしゃがみ込んでいるさくらがいる。

 弓を引き絞るかのように左腕で狙いを定め、「鬼」は自らの力を右腕に注ぎ込む。 無表情だったその顔に、初めて明確な感情が浮かび上がる。
 憎悪
 さくらは未だ小狼から目を離してはいない。
 切れる寸前のピアノ線のように張りつめた空気の中、「鬼」は矢を放つ。 己の右腕を。 それは一直線に、風を切る音を立ててさくらへとその爪を伸ばす。 
 邪魔者を切り裂くために。 


「・・・邪魔・・・・・しないで・・・」

 「鬼」の右腕が消える。 ぴくりとも動かないさくらに届く直前に。 
 蚊の鳴くような呟きが聞こえる。 不思議と鬼の咆吼の余波にかき消えることなく。

「・・・・・待っててね・・・小狼くん。・・・・・」

 感情の欠落したささやきがさくらの唇を割ってこぼれ落ちる。

「・・・すぐに終わるから・・・・・」

 暗い、夜の闇でさえ浅く感じられるほどの声が聞こえる。

 見開いたままの小狼の目をそっと閉じさせて、さくらは血に濡れた小狼の唇に自らの唇を軽く重ね、ゆっくりと立ち上がる。

 どんっ!!

 さくらと10mほど離れたところにいた「鬼」がさらに10mほど弾き飛ばされ地を滑る。 ぎこちなく、ゆっくりと振り返るさくら。 表情は前髪に隠れはっきりとは見えない。
 今まで見せたことのない機敏な動作で起きあがり、一気に20mの距離を走り抜けさくらに襲いかかる「鬼」。 

 「・・・・・・ねえ?・・・・」

 ズンッ

 今度は上からの衝撃が前のめりに押し潰す。 

「・・・・・あなたが・・・・やったの?・・・」

 起きあがろうと足掻く「鬼」にさくらは氷点下の声で問う。

「答えて。」

 横殴りに吹き飛ばされる「鬼」。 すぐに起きあがりまたさくらへと向かう。

「・・・・・あなたなのね。・・・・」

 「鬼」の爪がさくらに届く直前で止まる。 金縛りになったように動かなくなる。 いや、実際金縛りになっているのだろう。 必死になって唸り声を上げ、自分の腕を見えない「何か」から引き抜こうとしている。

 さくらを中心にして風が巻き上がる。 風になびく髪の間から、さくらの瞳が見える。

 その中にあるのは虚無、あらゆる感情の消え去った頬が涙で濡れている。

 普段の豊かな表情からは想像もつかない輝きを失った瞳が、じっと、「鬼」を見上げる。

「・・・・・」

 無言のまま、さくらは胸元のペンダントを右の手のひらに乗せ、目の高さに掲げ持つ。

「星の力を秘めし『鍵』よ・・・」

 ささやきがこぼれる。 力あるささやきが。

「・・・真の姿を我の前に示せ・・・」

 さくらの持つ鍵の形をしたペンダント、その中心の五芒星のシンボルに小さな輝きが灯る。

 さくらの足下に生まれた光が、星と太陽と月の描かれた魔法陣を形作る。

「・・・契約のもと、さくらが命じる・・・・・」

 「鍵」から発生した力場が渦を巻き始める。 最初は弱く、徐々に強く、激しく、大きく。 さくらが手を下ろしても力場に押されるように「鍵」は落ちる気配さえ見せずに回転しながら中空に固定されている。

 そして
  レリーズ
「封印解除!」

 静かに、強く。 さくらは呪文を終える。 同時に「鍵」の回転が止まり、60pほどの長さまで伸びる。 それはもはや「鍵」ではなく「杖」だ。 その杖を掴み、腰のポーチから一枚、タロットに似たカードを抜き取り目の高さに投げる。
 ソード 
「剣」

 宣言と共に杖をカードに突きつけるさくら。

 杖とカードが光に包まれ融合して一本の剣になる。 鍔に翼を、柄に星を持つレイピアに似た細身の剣に。

 予備動作無しの斬撃。

 弾き飛ばされる「鬼」。

 とさっ

 さくらの足下に何かが落ちる。

 離れた所で立ち上がる「鬼」、左肩から先が無い。

 それを見たさくらが足下に目を落とすと。

 切り落とされてなお動き続ける「鬼」の腕が転がっている。

 無言でそれを見つめるさくらがもう一度、今度は切り落とされた「鬼」の腕目がけ剣を振り下ろす。
 その切っ先から発生した衝撃波が「腕」を塵に還す。

 その隙に「鬼」はさくらの視界から消える。

 唐突にさくらの背後に表れた「鬼」が、牙を剥きさくらを襲いかかる。

 迫り来る「鬼」の気配を察してか、さくらは振り向きざまに剣の切っ先で文字を書くような動作をする。

 キンッ

 耳鳴りに似た金属音と共に「鬼」の腰を中心にして直径2メートルの光で出来た魔法陣が出現し、「鬼」をその場に縫い止める。
 地面に対して水平に浮いているその魔法陣はさくらが「鍵」を杖に変えた時に描かれたものと同じもの。
 さくらがさらに同じ動作を行うと、今度は垂直に同じ魔法陣が生まれ、もがき抜け出そうとする「鬼」の動きを完全に封じる。
 磔になった「鬼」を無言で見つめるさくら。 未だその瞳には絶望と虚無以外のどんな表情も見て取れない。

 ゆっくりと、「剣」を自らの頭上に持ち上げる。 その「剣」はさくらの頭上で今一度その姿を変える。 今度は切っ先のない身幅の広く長い両刃の剣に。 翼や星の装飾は消え去り、替わりに鍔元に絞首刑の絵が浮かぶ。 中世ヨーロッパで斬首に用いられた剣に似ているが、この場の誰もそんな知識を持ち合わせてはいない。

変貌を遂げた「剣」を掲げたさくらがそれを振り下ろそうとした刹那。

 音も立てず手首に「何か」が巻き付き、自由を奪う。 それが髪の毛ほどに細いワイヤーだとさくらが認識すると同時に


「まだ、間に合いそうだね。」
 変声期前の少年の様な声、黒い筒の様なシルエット、

「やあ、会うのは二度目だね。」

 場の雰囲気にそぐわない軽い口調でさくらに語りかけるのは、噂の中に棲む「死神」、その名は「ブギーポップ」。

「・・・・・」

 動かない右腕、動けない「鬼」、そしてブギーポップに目を向けるさくら。

「あなたも・・・邪魔をするの?」

底冷えのする声でさくら。

「いいのかい? これで。」

 ブギーポップは、さくらの問いには答えず。さらに続ける。

「君の守ろうとしているものは、君がきっかけで絶望に取り憑かれた。」

 さくらは、自らの魔力で縛を解き、無言でブギーポップに衝撃波を放つ。 それを避けたブギーポップは、

「君の命は、自分で思うよりずっと、それこそ世界に匹敵するほど重いということを自覚しなくてはいけないんだよ。」

 次々と放たれる衝撃波を、のらりくらりとかわしながら、それでも話をやめようとしない。

「・・・・・このままだと『死神』の僕としては、世界の敵として遮断しなくてはならないんだけど・・・君はそれを望んでいたのかい?」

 淡々と、無表情に、ブギーポップは「誰か」に語りかける。 さくらの猛攻を避け続けながら。

「『彼女』が大事なら、君はここで『終わる』訳にはいかないんじゃないのかい?」

 遠距離からの攻撃はらちがあかないと悟ったか、さくらは構えを変え、直接攻撃に出ようと走り出す。 もはや、相手は誰でも良いのだろう。 「鬼」を縛っていた魔法陣が消え失せる。 「鬼」は自由を取り戻すと同時に何処かへ逃げ去って行ったが、さくらは意に介さずブギーポップへ渾身の斬撃を放つ。 ブギーポップは鋼糸を操り剣の軌道を逸らすことで回避し続ける。 だが、達人の使う「何でも切れる剣」をそういつまでも避け続けることなど出来るはずもない。 袈裟切りの一撃がブギーポップを捉えようとしたその瞬間。

ガキンッ

 金属のぶつかりあうけたたましい音が響く。
                   シールド
 さくらの持つ剣とさくらカードの一つ、「盾」とがぶつかり合う音が。

「・・・・・どうして」

さくらはつぶやく。自分のしもべたる「さくらカード」が持ち主の意に反する行動を取った事に驚きを隠せずにいる。

「あなたまで、・・・どうして邪魔をするの?」

 その問いに答えるように、ブギーポップとさくらの間に薄い、ぼんやりとした人影が浮かぶ。 それは徐々にはっきりとした輪郭を形作り、白い衣装を着た悲しげな瞳の少女が現れる。
      ザ・ホープ  ザ・ナッシング
 彼女の名は「希望」。「無」としてクロウ・リードにクロウカード達の反物質として生み出され、さくらが最後に封印したカード。 そしてさくらにとって唯一の半オリジナルとも言えるカードである。

「・・・・・どいて・・・・・」

 剣を構え直し、さくらは言うが「希望」の名を持つ少女は首を横に振り動かない。 じっと、さくらを見つめながら何かを伝えようと口を動かす。 ちゃんとした手順を踏んで召喚されていないためか声は出ていない。

「どかないなら・・・あなたも。」

 剣を振り上げるさくら。 しかし、その動きが途中で止まる。

「・・・今・・・・・なんて・・・」

 呆然と呟くさくら。 「希望」の訴えは主であるさくらには聞こえるのだろう。 何を言ったのかは分からないがその言葉は確実にさくらを狂気から引き戻そうとしている。

「・・・・・・本当に・・・・・・それで・・・・・」

 さくらの問いに「希望」の名を持つ少女は首肯する。 少しだけ安心したように。

「じゃあ・・・・・お願い!・・・・・小狼君を助けて! 『希望』!!」

その叫ぶとさくらは糸の切れた操り人形のようにその場に倒れる。

そして

「希望」を中心にして広場の全てが光に包まれる。








「それ」は走る。 一刻も早くその場を、いや、「あれ」から離れるために。 今までに出会ったあらゆる「敵」と桁違いに強烈な「破壊の意志」を持つ「あれ」から。 もう、「部品」も「燃料」もどうでも良かった。 自分も、「羽化してくるもの」でさえも太刀打ちできないその「破壊の意志」は自らの存在意義そのものを打ち壊してしまいかねない。 本能の命じるままに「それ」は走る。 ここ以外のどこか遠くへ。 そこでまた「羽化」を待とう。 時間はかかるが仕方がない。 「あれ」の相手をするよりは安全で確実だ。 そう。 全ては「羽化」のために。 そのためにここは「逃げ」なくてはならない・・・・・・・

「そうは行きません。」

 唐突に頭上から聞こえたそれが「鬼」の最後に聞いた言葉だった。 上空から降り立った三つの影、その内の一つが「鬼」に向けて手に持った大きな杖を差しのべると紅い輝きが「鬼」の体から抜け出す。 そのまま「鬼」は倒れ元来の姿に、ただの死体へ戻る。

「それが『湧き出しもの』ですか?」

 影の一つ、蝶の羽を持つ黒豹がハンドボールほどの大きさの紅い輝きを持つ影に問いかける。

「ああ。そうだよスピネル。弟と妹、どちらがいい?」

 そう黒豹をスピネルと呼ぶ影の名は柊沢エリオル。さくらに「最強の魔術師」としての力を譲った張本人だ。

「あ、私はかわいい女の子がいいなぁ。」

 もう一つの影、こちらも蝶の羽を持っている。黒豹ではなく人の形をしているが。 名はルビー・ムーンと言う。

「どちらでもかまいません。今以上に騒がしくならないのなら。」

 素っ気なく黒豹、もといスピネル・サンは言う。

「エリオル? 本当にさくらちゃん達とは会わずに帰るの?」

 ルビー・ムーンの言葉にエリオルは

「ああ、二度とこれに悪ささせないためとはいえ、ここまで来ておきながら手を貸さなかった事を知られるのは困るからね。 一生恨まれても文句は言えないかな?」

そう言うと守護者達の答えを待たずに

「行こう。『彼』に見つかるとやっかいだ。」

 言いながらエリオルは片手で杖を振る。すると魔法陣が生まれ二人と一頭は跡形も無く消え去る。 かつて「鬼」だった物だけを残して。



 しばらく後、ブギーポップが「鬼」を見つけるが、すでに「それ」はただの肉のかたまりに過ぎなかった。

「壊すことだけが存在意義だった君は、どうしても邪魔をされる運命だったのかな? 前回は僕だったし、今回は彼女らが君の前に立ちはだかった。その上君の全てである破壊衝動は永久に封じられたみたいだし。いずれにしても、君の持つ可能性は完全に断ち切られた訳だ。」

 淡々と、腕のない死体に語りかける。

「一つ、聞きたいことがあったんだけど・・・」

 そう言って、決して答えの返ってこない質問を投げかける。

「新しい産道の居心地はどうだったんだい? 『ゾーラギ』?」

 そのつぶやきを聞く者は最早誰もいない。口笛の音を聞く者も。





つづく