SUN PM 7:15 東京タワー展望台上
ライトアップの光の届かない闇、その中から声が聞こえる
「一年ぶりね。」
少し高い、女の声
「ああ、そうなるな。」
低く、落ち着いてはいるが変声期前の少年の声
「何故、誰にも言わずにこの国に来たのですか?」
これも少年の声だが、こちらの方がいくぶん高い
「私にはもう先のことは見えないからね。 中途半端なことを言っても混乱させるだけだろう?」
「そうですか、てっきり裏で糸を引く事に快感をおぼえたのではないかと。 あなたの好きそうな展開ですし。 この間も嬉しそうに悪役を演じていましたからね。 思い過ごしだと良いのですが。」
しばらくの沈黙
「・・・否定しないのですか?」
さらに沈黙
「・・・図星ですね?」
「行こう。 もう始まっているからね。」
「愛想でいいから否定してください。」
そして声の主たちの気配が消える。 一瞬で。
7:05 ペンギン公園
小狼の元へ歩み寄る「鬼」。 恐怖で動けない小狼。 いまだ気を失ったままの凪。 一瞬で形勢が完全にくつがえ覆ってしまっている。 無意識に構えを取ることは出来たが、おそらく小狼は「鬼」の攻撃に対処する気力は残されていないだろう。焦点の合わない瞳を「鬼」に向けたままゆっくりと迫りくる「鬼」を無防備に迎える。
そこへ
「小僧!!」
ごうっ!
上空から叫び声とともに降り注ぐ紅蓮の炎が、「鬼」を包み込む。
その炎の消えた直後
じゃっ!
今度は青白い光の柱が「鬼」姿を掻き消す。
「無事か?」
翼持ち天使と見紛うような銀の輝きを引き連れし長身の青年、天才魔術師クロウ・リードに生み出され、今は木之本桜を自らの主と仰ぐ守護者、月の声で正気に戻った小狼は
「ユエ?・・・なら今のは・・・」
視線を巡らせた小狼、そこには
「こいつがブギーポップの言うてた『標的』か」
め じ し
純白の翼持つ金色の雌獅子が虚空を蹴り荘厳なるその姿を現す。 彼こそは誰あろう太陽と大地を司る魔獣にして木之本桜のもう一人の守護者、自称封印の獣ケルベロス。
「誰が自称や!」
ええい、この緊迫した場面で。
「後ろ!」
小狼の叫びと同時に「鬼」がケルベロスに襲いかかる。 なんとかそれをかわすと
「なんやて?! あれ食ろうて動けるんか?」
驚愕の声を上げるケルベロス。 彼の放った炎、月の光の柱、双方最高出力の攻撃を用いたのだ。 普通の人間、いや生命と呼べるものなら塵も残らないほどの高エネルギーを放ったのだからその反応もうなずける。
油断無く「鬼」を警戒しながら小狼の傍らに降り立つケルベロス。
「・・・本気であんな奴を一人で相手するつもりでおったんか? あの兄ちゃん。」
我知らず弱音を吐くケルベロス。 無言のまま凪を離れた所に降ろす月の表情にも焦りが見える。
だが、この一分に満たないやりとりが恐怖の中にいた少年を正気に引き戻す。
「月。その人は?」
「ああ、気絶しているだけだ。 何者だ? あの女? 巻き込まれただけにしては物騒な装備だったが・・・」
「たぶんその姉ちゃんが『炎の魔女』なんやろ? それより問題はあっちや。」
言いながら「鬼」をあごで指すケルベロス。
「わいと月の全力の攻撃が全然効いてへんってのはまずいで。 逃げるんならともかく勝つ方法が全く無いんやからな。」
ケルベロスが珍しく後ろ向きな意見を言う。 実際二人には先ほどの攻撃以上に鬼にダメージを与える術を持たない。 今、「鬼」の見た目や挙動にダメージが見受けられない以上、ケルベロスにも月にも打つ手がほとんど無い。
だが、小狼は違う。
「ケルベロス、月、少しだけ隙を作ってくれ。 一つ、試してみたいことがある。」
そう言うと木剣を抜く小狼。 パニックからは完全に抜け出せたようだ。 少しずつ、静かに、しかし確実に闘志が甦ってゆく。
「ああ、任すわ。 わいと月だけやったら多分有効打は打てん。 援護だけでええんやな?」
「ああ、まだ試していないことが一つだけあったことを思い出したからな。 ただ、これがだめなら本当に打つ手が無い。 その時は全力で逃げてくれ。」
食いしばる歯の根はあわず、呼気は荒い、流れ落ちる冷や汗は留まることを知らず、足下もおぼつかない。 術の使いすぎと今まで経験したことのない種類の恐怖に押し潰されそうになりながらもその眼光は鋭く、強い。 ふと、こぼれ落ちる涙を拭おうともせずに自分の名を呼ぶ少女の姿が脳裏に浮かぶ。 見ているものに耐えきれないほどの罪悪感と自責の念を与えるその姿は彼が最も見たくないもの、彼女の涙を見たくないがために、そのためだけに今、香港最強の術士、李小狼はここに立っている。
(・・・・・そんな顔をしないでくれ・・・・・・・)
何故か笑みがこぼれた。 自分でも理由は解らない。 今までの疲労が嘘のように引いてゆく。 今まで以上に気力が充実してゆくのを感じる。
(・・・何とかなる、)
呪文を唱える。 明るく、前向きで、まっすぐな目をした少女の「無敵の呪文」。
(・・・絶対、大丈夫だ。)
活発で、少しだけドジで、自分を「一番」だと言ってくれた少女が勇気を振り絞るために唱える呪文を借りる。
右手で符を持ち、左手の剣を眼前に掲げる。 左右でケルベロスと月が身構えている。
そして
三人が同時に地を蹴る。
SUN PM 7:30 木之本宅
「・・・はい・・・はい・・・・・そうですか・・・・・・・いえ、またかけ直します。・・・はい、失礼します。」
受話器を置いたさくらは深いため息をつく。
ペンギン公園の方角から強い魔力の気配を感じて小狼と知世、ケルベロスに連絡を取ろうとしているのだが皆留守の上、携帯電話は「電源を切っているか圏外」のために誰とも連絡が取れないでいる。
「どこにいるんだろう・・・。」
不安げな表情でさくら。 さくらカードと封印の鍵はすでに準備出来ていたが、一人で行っていいものか考えあぐねている。
今まで一人きりで得体の知れない事態に当たった事はさくらの記憶には無い。
いつも誰か、相談出来る相手が連絡の取れる所にいた。
知世の時もあるし、小狼が一緒の時もある。二人とも居ないときはケルベロスがいた。
月と二人のときもあった。
最終的に一人になることはあってもそれまでは必ず誰かがそばで相談に乗ってくれた。
でも、今夜は一人。 何かが起ころうとしているのに誰にも相談できない。
小さかった不安が徐々に大きくなってゆく。
怖い。 これまで経験したことが無いくらい。
だれもそばにいないことが。
依然、魔力の気配は消えてはいない。 それどころかさっきよりもさらに強く感じられる。
その中に間違いようのない親しい人物の声を聞いたような気がした。
「・・・え?・・・」
弾かれたように顔を上げるさくら。 意識を集中し、もう一度聞こえないか試してみる。
だが、声はもう聞こえず、待ちかまえていたかのように魔力も弱まってゆく。
それでも、その魔力が誰のものなのかは解った。 最も深く慣れ親しんだもの。 今までそれに気づかなかった自分に怒りさえ覚えるほどに。
「小狼君?!」
そのまま顔色を変えて家を飛び出すさくら。 また爆発的な魔力の奔流を感じる。
(お願い!!・・・間に合って!!・・・)
イヤな予感を抱えたまま走り続ける。 ペンギン公園へ。
さくらの願いが叶ったかどうかは見る人によって意見が割れるかもしれない。
SUN PM 7:30ペンギン公園
状況は、依然予断を許してはいない。 例えどんなに一方的な状況に見えても。
ケルベロス、月、小狼、いずれもほこりにまみれ、疲労の色が濃く表れてはいるが、三人とも無傷でいる。
対する「鬼」はと言うと
一言で言うなら満身創痍、服や肌はところどころ焦げており、数え切れないほどの裂傷が刻まれている。 既に右腕は肘から先が無く、離れたところにその残骸が転がっている。 首も半ば以上切れ目が入っていて今にもちぎれ落ちそうになっている。
だが、それでも「鬼」は立っている。 全ての傷口からは一滴の血も流れることはなく、その金の眼光は衰えることを知らない。 あまりにも異質で、だからこそおぞましく感じるその姿に、小狼たちは圧倒的な優勢に見える状況にいながらも毛ほどの安堵を感じることも出来ずにいる。
小狼の選んだ「最後の手段」は斬撃。 魔法で「鬼」を倒すことはほぼ不可能。 銃弾も傷こそ与えたが動きを封じるに至らず、発剄もダメージを与えている様には見えない。
だが、最初に凪が放ったナイフは「鬼」を傷つけている。 額に刺さったまま動き回ってはいたが、確かに根本まで食い込んでいた。 刃物はある程度通用する。 もし小狼の持つ木剣で切り傷を付けることが可能なら首や手足を完全に切り落とす事も不可能ではない。 それでも「殺す」ことは出来ないかもしれない。 元々生きているかどうかさえ疑わしいのだから。 だが、手足を失えば? 首を落とすのは無駄かも知れないが手足を無くせばさすがに身動きがとれなくなるだろう。 攻撃と逃亡の手段さえ奪えば後は池に沈めるなり埋めるなりして封印を施せばいい。 それで当面の危機は去ってくれる。
実際、「鬼」の右腕を切り落とすことは出来た。 今までとは比べ物にならないほどの結果が出た。 後は残りの手足が無くなるまで同じ戦法を繰り返せばいい。
まだ油断するわけにはいかないが、これでようやっと五分かそれ以上の戦いが可能になった。
「はあっ!!」
小狼が気合と共に今一度「鬼」に斬りかかる。 真正面から。 月とケルベロスは上空から牽制のための攻撃を放つ。
紅蓮の炎が、青白いプラズマの柱や光の矢、虚空より生み出された冷気の結晶が、「鬼」をめがけ殺到する。 月もケルベロスもこの攻撃で仕留める気はない。 目眩ましの効果があればいい。 出来るだけ派手で、連射が可能な攻撃で小狼の姿を「鬼」の目から隠す。
その間に小狼は。
正面から魔術の嵐の中にいる「鬼」へ向かって行ったが自分の間合いの直前で「鬼」の右手に回る。 こちらからも「鬼」の姿は見えないので月達が攻撃する直前の光景を思い出しながら胴より下を狙い右手の剣を横薙ぎに振るう。
ブンッ
木剣が空を切る。
小狼がそれを疑問に思う間もなく魔法の攻撃が止む。 そこに「鬼」の姿は無い。
「っ!!」
慌てて二人を捜そうと首を巡らせ
真後ろに出現した「鬼」を見つける。
刹那の対峙
「鬼」の左腕が小狼の首を狙う
紙一重でそれをかわしながら剣の間合いへと下がる小狼。
混乱していたのだろうか、効果の薄い胴への斬撃を放つ。
小狼の剣が「鬼」の肩口から袈裟切りに鳩尾の辺りまで食い込む。
ゴン
その音が自分の後頭部から聞こえて来たことが小狼には理解出来なかった。
「鬼」が切り落とされた右腕を操り小狼の死角から攻撃してきたのだが、そんな能力があることなど誰一人知っている筈もなく、不意打ちとしてはほぼ理想的な状態の攻撃を小狼は受けてしまう。
血が出ているのか、骨は折れていないか、確認する間もなく全身の力が急速に抜け落ちてくる。 意識も混濁していて、後頭部を襲う痛みさえどこか遠くの出来事のように感じられる。 目の前で「鬼」が拳を振りかぶるが、それも霞んで見える。
しゃおらんくん!
どこからか声が聞こえる。 自分の名を呼ぶ声が。
「・・・く・・・るな・・・・・」
かろうじて出た声は誰に向けられていたのだろう。
息を切らせて到着したさくらの目の前で
「鬼」は左腕で小狼のあごを砕く。
10mほど飛ばされそのまま動かなくなる小狼。
凪も、ケルベロスも、月も、未だ意識が戻る気配はない。
SUN PM 7:40 ペンギン公園
闇に彩られた公園、家から一直線に走ってきたさくらの見たものは
絶望
満身創痍ながらただ一人立つ「鬼」、少し離れた所に横たわる凪、月もそのそばに倒れている。ケルベロスは腹に太い木の枝が突き刺さっている。 壁に掛けられた昆虫標本のように。
そして
李小狼は
「鬼」から10m離れた所に倒れている。
「小狼くん!!」
足をもつれさせながら小狼のもとへ駆け寄る。 顔の見える距離まで来たとき
「っ!!」
立ちつくすさくら。 顔はすでに原型を留めておらず。 指先が小さく痙攣している。
しゃがみ込み震える手を小狼の首の後ろに差し入れると
ぬるり、と、濡れた感触が掌に伝わる。
「・・・・・あ・・・・・・・」
そして
さくらの視界に紅い闇が訪れる。