とある開発予定地、いや、「元」開発予定地と呼んだ方がいいかもしれない。

 バブル期、超高度集積都市開発のために工事の行われていたそこは、不況の煽りを受けて計画そのものが頓挫してしまい、今ではバリケードで覆われた広大な空き地が広がっているだけだ。

 しかし、その地下には上下水はもとより電線用、電話用、光ケーブル用など、数えるのもばかばかしいくらい縦横無尽に、人が通れるほどのパイプや、そのパイプの整備用の通路や地下街、地下鉄の路線やホームなどが走っている。 さながら巨大なダンジョンの様に。

 その一部、今となっては用途の推測出来ないパイプに囲まれたとある通路、そこにはおびただしい死体の山があった。

 その死体を作り上げたのは、中学生にしか見えない少年と、女子高生の二人だと聞かされれば、一体どれだけの人が信じるだろうか。

 だが、今はそこにある死体は一つだけ、数多くあるパイプの、その内の一本を守るかのように横たわる線の細い少年の体しかない。あとは色の落ちかけた血痕が、過去の惨劇を物語るように壁と言わず天井と言わずその一角を染め抜いている。

「ちっ・・・」

霧間凪は忌々しそうに舌打ちをして、その惨劇の跡に背を向けて歩き出した。

 さくら達がブギーポップと出会う二週間前の出来事だ。 そして、今回の事件の始まりの、その内の一つでもある。









SUN AM6:00 小狼宅



 さくらと小狼はベッドの上に腰掛けている。

 頬をその名の通り桜色に染めて潤んだ瞳を小狼に向ける。

 さくらと見つめ合う形になった小狼は早鐘どころでは無くなっている自分の心臓の音を聞いていた。

 喉がカラカラに乾いているくせにありもしない生唾を何度も飲み込み、息も荒くなっている。 何度も立ち上がろうとしたが、それこそ魔法にでもかかっているみたいに指一本動かすことが出来ない。 それ以前に、何故こんな状況になったのかさえ思い出せないでいる。

 小狼は今、自分の精神が細い糸の上に立っていることを自覚している。 今はなんとか理性を保ってはいるが、ほんの少し、それこそ羽毛に撫でられるくらいのことが起きても墜ちてしまうだろう、それほどに危険な状態である。

 とうとう、その「羽毛の一撃」がやってきた



「小狼くんだったら・・・」



 その一言は小狼の最後の理性を壊すには十分な威力を持っていた。



「さくら!」



 小狼は叫びながら蒲団をきつく抱きしめ。



 どてっ



 ベッドから落ちる、昨日出来たばかりのコブからまっさかさまに



「っッ! !!、・・・!!。〜〜〜!・・!!ッ!!」



 声も出ないほどの痛みに額を押さえ、ごろごろと床を転がる小狼、うららかな日曜の朝である。









SUN 10:00ペンギン公園



 特に近所にイベントが行われていないためか、今日は人が多い。

 入り口付近の滑り台(ペンギン大王と言う名で親しまれている、ペンギン公園と言う愛称の元になっている)や砂場などのある一角は小学校低学年くらいの子や親子連れで賑わっているし、他の場所でも遊歩道はアベックがまばらながらもベンチに腰掛けたり一緒に歩いたり楽しそうにしている。 広場ではお年寄り達がゲートボールや茶飲み話、囲碁や将棋などに興じている。

 それでも人のいない場所、というのは存在する。 林のそば遊歩道の一角、直径10メートル程に丸く林が切り取られているそこは、小さなベンチが一つだけ置いてあるのみだ。他からは死角になっていて見ることの出来ないそこを、小狼は「訓練場所」の一つにしていた。

 すでにランニングに30分、ストレッチに30分を費やした小狼は足を肩幅に開き、両腕を軽く前に持ち上げた状態で腰を落としている。 しばらくそのままで呼吸を整えていた小狼は、ゆっくりと体全体を左に向ける。 そこから一切の淀みなく全身を動かしながら右へ、左へと、ゆっくりと複雑に手足を動かしてゆく。 腰を落とした状態でゆっくりと、片足を上げ、大きく一歩を踏み出し、そのあとで逆の足を上げ、また、一歩踏み出す。 その間両腕も、首も、全身と呼吸さえ連動させてのろのろと動く。 踊っている様にも見えるが、その割には眼を引く様な派手な動作は見あたらない。

 そうして15分ほど動き続けた小狼は、最初のポーズに戻り、細く長く息を吐く。 見た目以上に体力を使うのか、ストレッチの時に引いていた汗が再び流れ出し、顔も少し紅潮している。

 休憩代わりに軽い柔軟体操をした後、両腕を下ろした状態で自然体に構え、気息を整え、今度は別の動作を始める。 それは先ほどとはうってかわって速く、激しく、荒々しい「動作」だ。 足が地面を打ち鳴らす度に呼気と拳、肘や膝が突き出される。

 今度は5分ほどで終了し、また、別の動作を始める。

 こうして実に10種類ほどの動作を終え、小狼はベンチに置いたタオルを取り、汗を拭いて腰掛ける。

 小狼の行っていた一連の動作は、一般に套路と呼ばれる中国拳法の「型」である。 香港で小狼はいくつかの流派を道術の修行の一環として伝授されている。

 古来より武術の修行法は各流派の秘伝とされ、外部に一切漏れることの無い環境でのみ修行が行われていたが昨今、治安の改善と後継者不足のために少しずつ公開されてきている。 大戦後、伝統芸能や健康法に本質を変えることで生き残ってきた少林寺拳法や太極拳などは、その典型といえる。 無論、武術としての本質である「人を殺すための技術」の保存を怠っている訳ではない。 ほとんどの武術は秘伝中の秘伝を一握りの素質と武徳の持ち主に伝えることでその本質を未来に残そうとしている。

 小狼は、その秘伝を何人かの師に教わり、既に他人に教える事を許されるほどの実力を持ち合わせている(と言っても許しを得たのは日本に来る直前だが)。 それでも、こうやって人目に付きそうな所での秘伝の訓練など許される筈もなく、もっぱらここではどこの道場でも教えてくれる基本の套路のみにとどまっている。 この基本動作、最低3年は続けなくては使い物にならないために、万一誰かに見られても大した問題にはならない。 それどころかもし、小狼の訓練を盗み見て、その動作を完璧に、実戦に使えるレベルで修得出来る者、つまり3年以上続けることの出来た者がいたのなら、後継者不足に悩む小狼の師匠達は、喜んで手取り足取り自分の武術を教えるだろう。 そんな人物は本場でさえそう多くはいない。

 小狼はこの訓練を毎日の日課にしている。 絶招と呼ばれる実戦用の奥義の訓練よりもこういった基本の套路の方が、確実に実力を付けることが出来る。

 その訓練を一通り終えた小狼は、ベンチに置いてあったタオルを取り、汗を拭う。今日の訓練は普段の倍以上熱心だった。

 今朝見た夢を強引に頭の中から追い払うために体を動かしていないと、昨日の出来事の記憶で海老のように悶絶する事は目に見えている。 何度か他の方法で自制を試みているがことごとく徒労に終わったために、いつも以上に熱を入れて訓練していたのである。 

 それも一段落付いて、こうして休憩している。 ベンチに腰掛け30分ほど休んでからもうひとまわり同じ套路をやろうかと小狼は考えていた。

 すると。

 少しくぐもった拍手が聞こえた。 

 小狼が音の聞こえた方に首を向けると、二十歳くらいの若い男がそこにいた。

 そいつは黒いコートを羽織り、絹の手袋を嵌め黒くて薄いアタッシュケースを足下に置き、軽薄そうだが確固たる自信を持った不敵ともとれる不思議な笑みを小狼に向けている。

「・・・絶滅寸前のモノホンの実戦武術たぁ、いや、良い物を見せてもらった。」

 男は拍手をやめ、アタッシュケースを左手に持ち、右手をコートのポケットにつっこみながら言う。

「なんだ? あんたは?」

小狼は少し身構えながら男に声をかける。

「ん? 別に大したもんじゃねーよ。 ただの通りすがりだ・・・って信じてねーな?」

 男は軽薄そうな笑みを崩さずに肩をすくめる。

「だったら右手をコートから出せ、銃から手を放して。 どのみちそんな小型の銃の命中精度じゃこの距離で当てるのは無理だ。」

 小狼のその言葉に男は感心した様に口笛を鳴らし

「よく気づいたな、やっぱただもんじゃねーな、少年。」

 と、コートから手を出し、無造作に小狼に近づく。 警戒心を解こうとしない小狼に構わず、小狼の左隣に腰掛けた。

「なんの用だ?」

小狼の質問には答えず、男は

「少年、名前は?」 と、反対に質問してくる。

小狼は面白くなさそうに鼻を鳴らし、

「そっちから名乗るのが礼儀だろう?」

「ふむ、そうだな、オレは寺月恭一郎だ。」

「もう少しましな嘘を付け」

「はは、やっぱばれるか? 悪い悪い、羽原健太郎ってんだ、オレ。 で、少年は?」

「李 小龍」

「おいおい、嘘はいけねぇぜ? 嘘は、」

 羽原健太郎と名乗った男は大げさに嘆いて見せた後

「なぁ? 李 小狼君?」

にやり、と人の悪そうな笑みを浮かべた。

「それで、何の用だ?」

「ありゃ、驚かねえのな」

健太郎はつまらなそうに言う

「素人のあんたがあの套路を実戦用なんて言った時点でオレのことをある程度調べてからここに来たことくらいすぐに読める。」

「可愛くねえガキだなぁ、全部見透かした上でオレをハメたってか?」

「別にあんたの機嫌を取るいわれはない。」

「まあいい、ならとっとと本題に移るとするか。 少年、この町がどういう所か知ってて住んでるのか?」

 一転して真面目な口調で健太郎

「? どういう意味だ?」

「オレはある組織を何年か調べているんだが、そこで奇妙なことに気が付いた。 その組織は世界中至る所にその端末をばらまいているんだが、おかしな事にここ、友枝町にだけはその「端末」が存在しねぇんだ。 いや、別に人手が足りないって訳じゃねぇ。 連中が最優先にしている「仕事」さえ、この町じゃ何一つやっていない。 そのくせ他の「組織」の関与があると躍起になって追い払おうとしている。 考えられねぇんだよ、いつもの連中のやり口からは。 まあそれは今回あんまし関係無いんだけどよ。 実はオレは今、別口である物を探しているんだ。 「組織」も同じ物を探しているみたいなんだが3週間近く捕まっていない。 何人かは返り討ちに会ったみたいだしな。 その上ここ1週間、連中手がかりさえ掴めないでいる。 そこでオレは「空白地帯」のここにいるんじゃないかって踏んでやって来たって寸法だ。」

 そこまで一気に話すと健太郎は小狼をまっすぐに見つめ

「なんか知らねぇか? 情報料は弾むぜ。」

「いや、知らない。 その組織のことも初耳だ。 それに何故それとオレに何か関係があると思ったんだ?」

「そんなに難しい理屈じゃない。 単に連中がこの町から出払った時期とおたくがやって来た時期とが大体一緒だったってだけだ。 他にもそんな奴は何人かいるがおたくが「特別」だって事はすぐに調べが付いた。 今回の捜し物とは無関係だと思ったが、ま、駄目もとってやつだ。 情報が少なすぎるからな。」

「その組織ってのは一体何なんだ? 何故この町を避けて通る?」

 言いながら小狼はその理由に心当たりがあった。 小狼が日本にやって来た時期と大体一致すると言うことはクロウカード絡みである事は容易に想像できる。 そして、クロウカードの関係者で大がかりな組織にさえ影響力を持つ人物にも心当たりがある。 そう、クロウカードの生みの親にして不世出の天才魔術師クロウ・リード。 その生まれ変わりである柊沢エリオル、彼が関与していることはほぼ間違いない。 おそらくさくらに害が及ばないようにその組織と「取引」したのだろう。 どんな密約が交わされたのかは想像の範疇を越えるが。 

小狼も同じような事をやろうとしている。 さくらの存在をこの男、羽原健太郎に悟られない様、細心の注意を払いながら、少しでも情報を仕入れようとする。

 そんな小狼の心中を知ってか知らずか健太郎は。

「どんな組織、か・・・ひとことで言うと「悪の秘密結社」、だな。」

「・・・馬鹿にしているのか?」

「そうじゃねーよ。 詳しいことを言うとおたくも後戻り出来なくなるから言わないだけだ。 実際他に表現のしようがねえんだよ。 なにしろダムに毒放り込んだり幼稚園の遠足のバスジャックなんて真似までやりかねねえ連中なんだ。 目的こそテレビでやってるような世界征服なんてのじゃねーがやってることは大差無ぇんだよ、困ったことに。」

 どこか疲れたように健太郎。

「するとあんたはさしずめ正義の味方ってところか?」

「ガラじゃねーよ。」

「で? 捜し物というのは?」

「野犬、みたいなもんだ。 どこぞの研究所から逃げ出した実験動物だと思ってくれりゃいい。 本当はもっと複雑だが全貌を知ってもなんの役にも立たないからな。 かなりやっかいな代物だって話だ。 この町に居座られるとかなりの被害が出るだろう。 知らないならそれでもいい、協力しろとも言わない。 ただ、オレの調査の邪魔はしないでくれ。 おたくに会いに来た理由はそれだけだ。」

「邪魔はするな、か・・・」

小狼は、健太郎の言葉を吟味するように少し間を置き

「ひとつ、質問がある。 あんたの「相棒」はここに来ているのか?」

 健太郎はそれを聞くと驚いたように目を見開き

「・・・なんの話だ?」

「とぼける気ならそれでもいい、オレも少しその「野犬」のことは調べてみる。 先にこっちが片を付けても文句は無いんだろう?」

「・・・ふん、確かに文句はねえよ。 ったく、こんなガキにバレるとはな・・・まあ「同類」なら無理もねえか。」

「・・・同類・・・か、確かにな。」

 ここにきて初めて小狼は笑みを浮かべる。 それは健太郎に挑戦するような、ひどく攻撃的な笑みである。

「ま、期待してるぜ。 おたくが解決してくれるんならこっちも面倒が無くて有り難い。 ただな、ひとつだけ忠告しといてやる。」

 健太郎は、ベンチから立ち上がり、小狼に背をむけたまま

「今回の事件で、もしおたくらが事態の中心にたどり着くことがあったのなら、それが故意であれ偶然であれ・・・狙われるぜ。 精々気を付けるこった。」

 そう言い残し立ち去ろうとする健太郎の背中に小狼は

「あんたらみたいに・・・か?」

「けっ、やっぱ可愛くねぇガキだな。 忠告はしたぜ? どう転んでも責任は取らねぇからな。」 

 そのまま後ろを振り返ることなく、羽原健太郎と名乗る男は去ってゆく。 ひとり残された小狼は

「狙われる、か」

そう呟き立ち上がり、訓練を再開する。 来るなら来い、「彼女」を護るのは俺の役目だ。 そんな決意をこめて。
 



つづく