彼の名はスピネル・サン。
 あだ名でも愛称でもなく、彼を創り出した魔術師から直接もらった本名だ。
 愛称もあるにはあるのだが彼はそれをあまり気に入ってはいない。
 元々はイギリスで生まれ育ったが日本に一年ほど滞在していたこともある。
 今は親であり主人でもある魔術師と共に日本の某所を訪ねている。

「手に入れた『湧き出しもの』の完全な無害化も済んでいないのに何処に行こうというのです?」

 スピネルは主人に問う。 落ち着いた、男の子の様な声で。

「京都の知り合いにここが本場だと聞いてね。 次にいつ日本に来れるか分からないからね。 すぐに済むさ。」

 中学生くらいの理知的な感じのする少年、柊沢エリオルが答える。 メガネの反射でスピネルからは表情は良く見えない。 しかし声音には笑みが含まれており、こういったしゃべり方をするときの彼は必ず良からぬ事を考えているのは決して短くはない付き合いで骨身に染みている。

「相変わらず真面目ねぇ。スッピーは。」

 どこかの学校指定のブレザーを着込んだ美女―というか美少女というか微妙な所ではあるが―が肩に乗せているデフォルメされた黒猫のぬいぐるみの頬をつつきながら楽しそうに言う。

「旅行なんだから楽しめば良いじゃない。」

 あっけらかんと言う彼女の名は秋月奈久留、これは偽名だが。

「だれがスッピーですか。 私が言いたいのはですね・・・」

 黒猫のぬいぐるみに青筋が浮かぶ。 このぬいぐるみがスピネル・サンその人(?)である。 これは仮の姿だが本来の姿だと目立ちすぎるためにぬいぐるみのふりをしている。

「スピネル。」

スピネルの抗議はエリオルの声に遮られる。 さすがにこの雑踏の中、大声を出すと目立つだろう。 モラルと平穏を愛するスピネルとしてはここで目立つ訳にはいかない。  彼らが訪れているのは兵庫県明石市。 子午線の通る街、日本のヘソという異名を持つ漁港である。 その中央商店街を2人と一匹は歩いている。
 わざわざ遠方から海の幸を買い付けるためだけにここを訪れる人も多く、午前中からかなりの賑わいがある。
 冷やかしがてらに店先に並んだ魚介類をのぞき込んだりしながら一行は人混みを進んでゆく。

 そして

「ああ、あれだ。」

 立ち止まったエリオルが指し示す先には、はちまきを巻いたタコのイラストの描かれた立て看板。 その下には「玉子焼き」の文字が。

「玉子焼きにタコの絵?」

 奈久留が率直な疑問を述べる。

「すぐに分かるよ。」

 言葉を濁すエリオル。 しかしその店から漂う薫りに強烈な既視感を覚えたスピネルにはその声は届かない。
(まさか・・・)
 そんなはずはない。 スピネルは慌ててその考えをうち消す。 あれは大阪の食べ物だったはずだ。 第一名前が違う。 しかしこの薫りはたしかに。 いや、しかしあれのためにわざわざ関西まで足を運ぶ訳が。 ・・・・・あり得る。 彼の性格なら十分に。 しかし・・・・・・・・
 などというスピネルの内心の葛藤などお構いなしにエリオルと奈久留は店の前に到着する。
 ウィンドウに商品が並んでいる。 朱塗りの、下駄に似た台の上に鎮座するは黄金色の球体。 食欲をそそる絶妙なおこげを付けた丸い物体。
(た、たこやき・・・・・)

「あれ? これってたこ焼きじゃないの?」

 奈久留がスピネルの心中を代弁する。

「ああ、元々は玉子焼きという名前だったんだよ。 『明石焼き』とも言うそうだね。 ともかくこの街が本場なんだよ。」

 と、エリオルが京都で得た知識を披露する。

「このためにここに来たの?」

「ああ、さくらさんの作ってくれたものも美味しかったけど本場の味も知りたくてね。」

 などというやりとりは最早スピネルの耳には入ってはいない。
(食べたい・・・)
 と言う思いだけが彼を支配している。 ケルベロスと最後の一個を取り合って壮絶なバトルを繰り広げたのが去年の夏。 それ以来あの至高の味とはご無沙汰だったのだ。 喜びの余り踊り出さないのが奇跡に等しかった。 その代わりと言っては何だがよだれは止めどなくあふれ出しているが。

「・・・・・それにしても、残念ねぇスッピー。」

「・・・・・何がですか?」

出来るだけ平静を装ったが声が完全に裏返っている。

「だって、ぬいぐるみの振りを続けなくちゃいけないんでしょ? お店であなたが食べたら大変な事になるじゃない。」

 ハンマーに殴られたような衝撃がスピネルを襲う。 ショックで見開いたままの目をエリオルに向けると

「・・・それは気づかなかった。」

 楽しそうにそう言うエリオル。

 嘘だ! 知ってて言ってるんでしょう!!

「本当は出来たてが一番美味しいんだけど。 一皿持ち帰るから目の前で食べていても我慢出来るよね? スピネル?」

 我慢出来ません! 私は出来たてを食べたいんです!!

「ここで見てるだけってのも何だし。 入ろっか。 エリオル。」

「ああ、そうだな。」

 そう言ってのれんをくぐるエリオル。

 ひどい! オニ! 悪魔ぁぁっ!

 スピネルの魂の叫びを完璧に無視して2人は楽しげに席に着く。

 この後、彼にとっての地獄絵図が繰り広げられた。






 帰国後

 電話口で延々と、五時間に渡ってケルベロスに愚痴をこぼすスピネルの姿があったとか無かったとか。




終わり